プーマの買取について | かんてい局つくば店
プーマの買取について|質屋かんてい局つくば店
こんにちは、かんてい局つくば店です。
今回は世界的なスポーツシューズメーカーであるプーマについてお話してまいります。
プーマが今まで辿ってきた歴史や発売している様々なお品物をご紹介していきますので、興味を持っていただければ幸いです。
そんな魅力あふれるプーマのシューズを、かんてい局つくば店では積極的に買取を行っております。
お手元のプーマのシューズを買取してもらおうか悩んでいるお客様がいらっしゃれば、是非かんてい局つくば店までご来店ください。
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プーマの歴史
まずはプーマが辿ってきた歴史についてお話させていただきます。
プーマが誕生するまで
1924年、プーマの創業者であるルドルフ・ダスラーは、弟であるアドルフ・ダスラーが行っている事業に加わる形で、スポーツシューズを製造するダスラー兄弟製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)を設立しました
兄のルドルフは営業担当、弟のアドルフは製造部門を担当して、最初は仲良く会社の運営をしていました。
1936年のベルリンオリンピックでは、参加した選手に個別で売り込みをかけるなど精力的に営業を行い、このオリンピックを機にビジネスを軌道に乗せることに成功しました。結果的に、第二次世界大戦前には年間20万足もの靴を販売するまでになっていました当時の市場で20万足とは恐れ入ります
プーマの誕生
順調にビジネスを進めていたダスラー兄弟製靴工業でしたが、第二次世界大戦が暗い影を落としていくことになります。ナチス・ドイツが政権を取ったことで、世界大戦中は仕事を請け負うためにはナチスの党員になる必要がどうしてもありました。オリンピックではナチス政権がスポーツ振興を掲げていたため、政権の力を追い風にすることが出来ましたが、世界大戦がはじまると兄弟の仲に亀裂を入れるきっかけとなってしまいました。
兄弟は上記の理由によりナチスに入党しましたが、弟のルドルフの方が兄よりも少しナチスに近い立ち位置をとっていました。これも亀裂のきっかけになりましたが、1943年に起こった連合国の爆撃で両者の関係は決定的に亀裂が入りました。
この時に弟のアドルフが放った一言を兄のルドルフは自分に対して言っていると思ってしまったのです。また、兄のルドルフがアメリカ軍に逮捕された際には、弟のアドルフがアメリカ軍に密告したからだと確信していたそうです。ちなみにルドルフは逮捕から1年後の1946年7月に釈放されました。
1948年4月、ついに兄弟は袂を分けることになります。ダスラー兄弟製靴工場の資産は、兄弟間で設備や特許に至るまで細かく分割されました。従業員は、販売担当はルドルフに、技術担当はアドルフにほとんどついていきました。
ルドルフは、アウラハ川の対岸にルーダ (Ruda)という会社を設立したが、ほどなくプーマ・シューファブリーク・ルドルフ・ダスラー (Puma Schuhfabrik Rudolf Dassler)に社名を改めました。こちらの方がより軽快な印象を残せると考えたからです
ちなみに、弟のアドルフは自分の愛称と苗字を組み合わせてアディダスという会社を立ち上げました。なにを隠そう、現代のアディダスです。
つまり、プーマとアディダスは元は同じ会社だったのです兄弟げんかで別れた会社がどちらも世界的な企業になったのですから、別れずにいたら一体どれだけの会社になっていたのでしょうか?
プーマとアディダスの熾烈な競争
分裂し違う会社になったプーマとアディダスは、すぐに熾烈な競争を繰り返すようになりました。この争いは、企業間だけでなく、会社が立っている町の人にまで広がっていきました。お互いが履いているシューズを確認してからでないと、会話や商売を始めることが出来ないくらい深刻な状況で、町中の人がみんな靴を意識して下しか見ていなかったため、「首を曲げた町」と呼ばれていたそうです
町での競争だけでなく、スポーツ選手への売り込みも非常に熾烈な争いとなっていきました。1960年代に入ると、自分達の開発したシューズをアスリートに履いてもらうために金銭を支払うことが常態化するようになりました。オリンピックの開催時期になると、プーマの社長(ルドルフの息子)とアディダスの社長(アドルフの息子)が宿泊するホテルの部屋の前には、報酬をもらおうとオリンピック選手が列を作っていたそうです。今では考えられない状況ですね
オリンピック選手の中には競技はプーマ、表彰式はアディダスと履き分けて両方から報酬をもらおうとした人もいたとかちなみに、この選手には両社とも報酬を出さなかったそうです
「ペレ協定」とプーマのその後
1970年に入ると、1つの協定がプーマとアディダスの間で結ばれます。いわゆる「ペレ協定」と呼ばれる協定です。当時のサッカー界のスーパースターであったペレに対しては、両者とも契約を行わないというものでした。ペレに対して今まで通りの競争を行うと、金額の高騰に歯止めがかけられなくなってしまうためです。
しかし、この協定はプーマ側があっさり破ることになります。1970年FIFAワールドカップ前にペレと契約したプーマは、プーマの知名度を上げるために一つの作戦を思いつきました。ワールドカップ決勝の試合開始直前に、ペレが審判に対し靴紐を結びなおさせてほしいといい、実際に靴紐を結びなしてペレが履いているプーマの靴をテレビ画面に映し出させるという作戦は大成功を収め、計り知れない宣伝効果をプーマにもたらすことになります。
この後も、プーマの靴はサッカー選手にとってスタンダードな存在となり、ペレをはじめ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナ、ローター・マテウスと言った世界のスーパースターや三浦知良や中山雅史をはじめとした日本のトップ選手が愛用するまでに至りました。
1980年代におけるアメリカ市場での失敗で一時はブランドとしてのイメージが悪くなっていましたが、1990年代に広告宣伝費の増強や生産工場のコストカットを行った結果、中盤以降には業績が好転し、2003年には株価が1993年の16倍以上までになりました。
1998年には、スポーツメーカーとして初の高級ブランドとのコラボも実現し、スポーツメーカーとして新しい流れも生み出すことにも成功しました。
今現在においても、サッカーをはじめとする様々なスポーツに機能的なシューズを提供し続けており、更なる発展が見込まれております。
以上、簡単ではありますが、プーマの歴史についてお話させていただきました。少しでも興味を持っていただければ幸いです。
プーマのシューズのご紹介
続きまして、プーマが発表しているシューズのご案内をさせていただきます。お気に入りの一足が見つかれば幸いです。
・プーマ SUEDE MCMコラボ
かんてい局つくば店 買取金額 6,000円
※2020年5月22日現在の金額になります。市場の動向等により金額が上下する場合がございます。
1968年にバスケットボール用シューズとして登場したモデルで、シンプルなデザインと柔らかい素材を使用している点が特徴です。プーマの中で定番のモデルで豊富にカラーがそろっています。
・プーマ CLYDE
かんてい局つくば店 買取金額 2,000円
※2020年5月22日現在の金額になります。市場の動向等により金額が上下する場合がございます。
スエードと同様にプーマの人気モデルです。スエードと似ておりますが、かかと部分のロゴの有無、サイドのモデル名の表記、縫込みの位置に違いがみられます。ファッション性の高いタイプもあり、スタイリッシュなコーディネートにもおすすめです。
・プーマ DISC BLAZE
かんてい局つくば店 買取金額 1,500円
※2020年5月22日現在の金額になります。市場の動向等により金額が上下する場合がございます。
1989年に発売されましたプーマの代表的なハイテクモデルになります。90年代のブームをけん引しただけでなく、現在でも人気モデルの1つになります。
以上、プーマのシューズのご紹介をさせていただきました。お気に入りの一足は見つけられましたでしょうか?
いかがでしょうか?
ここまでプーマの歴史とおすすめのシューズのご案内をさせていただきましたが、少しでも興味を持っていただければ幸いです。
そんな魅力あるプーマのシューズの買取を、かんてい局つくば店では積極的に買取を行っております
もしお手元にプーマのシューズをお持ちで、買取してもらおうか悩んでいるお客様がいらっしゃれば、是非かんてい局つくば店までご来店下さい
お客様のご来店を、かんてい局つくば店スタッフ一同、心よりお待ちしております
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