備前焼について。「これに入れると水が腐らぬ」は本当?
備前焼の概要
現代から遠く800年ほど昔の鎌倉時代、備前市伊部(いんべ)の西にある熊山(備前市の隣接の熊山町にまたがる山)の周りで焼物がつくられていたが、交通の便や経済の発展に伴いこの地にいた陶工たちが、住みにくい山を下りて便利の良い隣の浦伊部から伊部へ移り住み、応水年間には伊部を中心に陶工達の集落ができた。これが現代の備前焼集落の始まりであると一説にはいわれている。
※備前市:現代の岡山県
※応永年間:日本の元号(年号)。室町時代の1394年から1428年まで。
※陶工:陶磁器を作る人。焼物師。
戦時中や戦後は物資も乏しく、質素倹約の生活におわれて多くの人々は、生活に必要な物を優先していた。遊びや娯楽に興じる余裕もなく、当然、備前焼を鑑賞するという余裕もつ人は非常に稀有であった。一般の人々の中には余裕もなかったので、備前焼きの作り手は細々ながら数軒の窯元や作家がいたに過ぎなかった。、陶工も僅か十数人に過ぎなかったようである。余談であるが、第二次世界大戦時には金属不足のため、備前焼による手榴弾が試作されたこともあったそうだ。しかしながら、実戦投入はされなかったと記録が残っている。
※質素倹約:ぜいたくをせずつつましくして、出費をできるだけ少なくすること。
※窯元:陶磁器を窯で焼いて作り出す所。また、その陶磁器を作る人。
※作家:芸術作品の制作をする人。また、それを職業とする人。
戦時のその後、経済界の復興の波に乗って世の中が落ち着くと共に、伝統を受けついだ”ワビ” ”サビ”の備前焼の 魅力は人々に愛されるようになり、ぞくぞく転廃業の人たちも復帰し、新人もまた次々に増加して、未曾有の繁栄をもたらした。赤穂線伊部駅前、国道二号線に沿った伊部の町は活況を呈し、窯元、作家、備前焼の店舗が軒を並べ、連日逸品を手にしょうとする愛好家や見学者を 運ぶバス。乗用車で賑わっている。
※ワビサビ:日本の美意識の1つ。貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識。閑寂ななかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう。
※ワビ(詫び): 茶道や俳諧などにおける美的理念のひとつ。簡素の中に見いだされる清澄・閑寂な趣。閑寂な生活を楽しむこと。思いわずらうこと。悲嘆にくれること。
※サビ:古びて味わいのあること。枯れた渋い趣。 閑寂枯淡の趣。 声の質で、低く渋みのあるもの。「寂のある声」。
奈良平安時代には全国に二千以上の窯があったが、そのころ朝鮮の新羅·唐などの影響を受けた赤い須恵器をつくり出して、伊部の陶工は競って研究し素晴らしい焼物を作った。それが備前焼である。他の焼物が釉薬(う わぐすり)を使用する中で、稲薬を使わず原始時代の焼 物の陶法を踏襲、古典の妙境を現在まで伝え、千古の歴史を有する世界最古の焼物である。
※須恵器(読み)すえき:古墳時代の後半から日本でつくられた陶質の土器。青黒色。渡来人によってつくられたのが始まりとされ、朝鮮でその祖形がみつかっている。「すえ」の地名のあるところには,須恵器の窯跡が発見されることが多い。器形には壺,かめ,椀,杯,高坏,器台などがある。食器,祭器として使用された。
原料になる土の質が優秀なことから、この地に焼物が発達したと言われている。この地方の土は、よその土地で は見られない鉄分の多い非常に良い質のもので焼物に最も適している。山陽新幹線の工事中に池底深く5mのところに厚い粘土層が現われた。分析すると焼物の土として最高のものとわか った。陶工達は早速国鉄と交渉したが許可が出ず、工事を急ぐという理由から海にどんどん捨てられた。陶工の内には身をけずられる思いだと嘆息していた人もあったという。
次は焼成に使う松割木である。これも備前のものが良く伊部の松が最良ともいわれ、最高1320度で 一週間以上も焼き続ける。原土の含有原素と表面に 付着した松の灰が化合して自然生成を現出する。昔は自然の焼成のみだったが、今日では桟切(さんぎり)焼、ゴマ焼、ヒダスキ焼、青焼などを人工によって現出する よう、幾多の陶工達が創意工夫に苦心して完成している。
※焼成:陶磁器の製造工程の最後に行われる高温加熱工程をいう。一定の形状と強度を確保することをおもな目的として行われ,物質の性質を決定する工程として重要である。
※松割木:窯焚き用の木材。薪。火付きがよく、火力も強い材質が好まれる。
現在、備前焼の生産高は数十億円。(昭和当時)窯の数は 150窯、陶工は200人と推定される。人間国宝金重陶陽の没後、さきに人間国宝となった藤原啓はじめ岡山県無形文化財指定の山本陶秀、藤原楽山、浦上善次、藤原建らが おり、窯元十五軒、作家は老練、中堅、新人、と百五十人近く輩出している。
※人間国宝:日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。
窯元と作家の区別について言えば、窯元は多量生産な ので陶工や女工達による型物が多く、窯も大きく多量に出来るので価格も安く、また窯印もすべて窯元に統一さ れている。作家はそれぞれ自分の窯を持ち、土つくりか ら製造、窯たき、販売まで自分の手でやり、自作の銘を必ず作品に刻む。窯元に勤めて永年陶技を習得し、一人前の陶工になってから独立して築窯、作家となる例が多い。
また「備前焼」と「伊部焼」については、前者が昔の国名、後者が地名で同一であるが、研究の上から見ると、原土から石などを除いてそのまま使用した粗手のものを「備前手」、原土を水厳(ひ) して細かくしたきめ細かい作品を「伊部手」と呼ばれている。
備前焼は、うわぐすりを使うことなく、絵付けもしない。土そのままを長時間焼きしめた独特の味わいをもった陶器で、そのことが自然と”ワビ””サビ” の境地になる。茶人が愛玩するのも、その窯変が千差万別で飽く ことがないことによるものである。
「備前すり鉢投げても毀れぬ」とか「これに入れると水が腐らぬ」「酒を入れるとうまい」「中風にかからぬ」などと昔からいわれてきた。
これはすべて備前焼賞賛のあらわれである。
遠い過去、応永年間に、伊部に焼物の集落ができたが、大窯時代を迎え(これらの大窯は共同窯であり限られた窯元で運営された)その頃から「窯元六姓」という組織が生まれた。
窯元六姓は代々世襲してお互いに営業権を持ち、窯を支配して他のものには一切営業させなかった。
江戸時代になって備前池田藩主は、備前焼を国産として保護するためにこれら窯元六姓に御細工人という肩書を与えて給米し、士分同様の扱いをした。六姓とは「木村、森、金重、大饗、頓宮、寺見」の六家である。窯元六姓には藩の保護や統制の背景、小規模の窯を統合しブランド力の強化などの目的もあったと言われている。
参考文献
コトバンク https://kotobank.jp/
ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/
岡山観光web https://www.okayama-kanko.jp/feature/bizenyaki/1
備前焼現代作家集 第三回 岡山観光公社出版部
やきもののある生活 小学館 黒田草臣/監修
小さな蕾 1981年02月号 備前焼のルーツをさぐる 創樹社美術出版
備前焼ベストセレクション/金重陶陽.藤原啓.山本陶秀 阿部出版