【質屋かんてい局松前R56店】ハイケースディスプレイ変更してくれました♪♪balenciaga/CELINE/dior/YSL/PPADA/GUCCI/FENDIなどなど【愛媛・松前・宇和島・南予・八幡浜】

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店舗名 松前R56店
商品名
ブランド名
買取価格

 

ディスプレイ変更してくれました♪

 

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ハイケースディスプレイ変更してくれました!!
 
1億円買取キャンペーンの影響もあって買取、お預かりがかなり増えております!
 
そのおかげで売り場がかなり商品が増えたので売り場のお姉様方たちが
 
綺麗にディスプレイ変更してくれましたー!!(^^)/
 
女子ならみんな大好きbalenciaga(バレンシアガ)やCELINE(セリーヌ)
 
dior(ディオール)、YSL(イヴサンローラン)、PPADA(プラダ)などなど
 
かんてい局松前R56店には様々なブランドの商品を取り揃えてますよ♪

 

 

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BALENCIAGA(バレンシアガ) ネイビーカバス/NAVY CABAS
 
キャンバス地にBALENCIAGA(バレンシアガ)のロゴ。一気に人気になりましたよね!
 
 
balenciaga(バレンシアガ)とは・・・

今や世界的な知名度を誇り、バッグや財布をはじめ、ウェア、シューズなど

 

日本でも人気の高いラインナップを展開するフランスのラグジュアリーブランドbalenciaga(バレンシアガ)。

 

その創業は、 1900年代初頭にスペインにてオートクチュール(オーダメードの高級服飾を扱う店および製品)のメゾンを構えたのが始まりになるそうです。

 

創業者クリストバル・バレンシアガは、1895年にフランスに近い現在のスペイン・バスク州ギプスコア県ゲタリアに生まれました。

 

彼の母親は服飾などの仕立てや裁縫を商いとして営み、幼い頃からクリストバルは、そんな母親の仕事を見て育ちました。


青年期に入ると、独学で覚えた服飾の仕立て技術が評判となり、地元貴族の夫人の目に止まり彼の顧客になります。

 

そしてその貴族夫人は、彼の技術をさらに磨かせるため、マドリードの仕立屋に修行を積ませます。

 

修行を終えたクリストバルは、バスク州ギプスコア県の県都サン・セバスチャンにオートクチュールハウスを開店し、

 

1919年にはパリのオートクチュール・コレクションに初めて参加します。

 

その評判はスペイン国内で徐々に広まり、

 

2店舗目をマドリード、3店舗目をバルセロナにオープンさせるまでに漕ぎ着けました。


さらに、スペイン王室や貴族たちがクリストバルの顧客となり順風満帆のスタートでしたが、

 

1936年に勃発したスペイン内戦の影響により営業が困難となり店を閉じることになります。

 

翌年の1937年、新天地としてフランス・パリのジョルジュ・サンク大通り10番地にメゾンを構え、ここが今に続くブランドbalenciaga(バレンシアガ)の前進となりますね。

その後いろいろな経験をつみ今や幅広い年代に愛されるブランドとなります。

 
 
 
 
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CELINE(セリーヌ) ラゲージ
 
 

CELINE(セリーヌ)とは・・・

CELINE(セリーヌ)は1945年、女性実業家であるセリーヌ・ヴィピアナが、

 

夫のリチャードとパリへ子供靴専門店を開いたことに始まります。


主にオーダーメイドの子供靴を手掛けており、

 

パリの伝統職人の技術を活かした質の良い品々で、たちまち上流階級を中心に人気が拡大しました。


その子供靴を履いた子供たちの成長に合わせ、

 

創業から14年後には子供靴だけでなく大人用の婦人靴も展開を始め、

 

その後はスカーフや香水、そしてバッグなどを次々に手掛けています。

1967年にはプレタポルテを開始し、

 

子供靴だけでないトータルファッションブランドとして認識されるようになりました。

CELINE(セリーヌ)はバッグの製造を始めた1960年台後半には、

 

今に続くCELINE(セリーヌ)のモチーフとなった馬車の柄、

 

そして馬車の金具をモチーフとしたバッグを手掛け、

 

一躍パリを代表するフレンチカジュアルブランドへと上り詰めました。

フレンチカジュアルの流行が去ったときにCELINE(セリーヌ)は一時低迷しますが、

 

1987年にディオール等の有名ブランドが並ぶアガッシュ社の傘下となることで、

 

徐々に売り上げを伸ばしていきます。


そして1990年代、当時アメリカで大活躍していたマイケルコースをデザイナーとして起用し、

 

これまでのCELINE(セリーヌ)の高級感に程よいカジュアルテイストを取り入れ人気が再熱し、

 

CELINE(セリーヌ)は現在も女性のファッショナブルなアイコンとして定着しています。

 

 
 
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PRADA(プラダ) 
 
 

PRADA(プラダ)とは

PRADA(プラダ)は兄のマリオ・プラダ、

 

そしてその弟のマルティーノ・プラダの2人の兄弟によって、

 

今から100年以上も昔の1913年にイタリアで創業しました。

 

兄のマリオ・プラダは各国を旅して、ワニ、蛇、象やセイウチなどの

 

珍しい素材や高品質な皮革を集め、

 

それらを使い優れた職人技術によって豪華な鞄を作成しました。

 

これがミラノの上流階級の人々から評判になり、イタリア王室の御用達となりました。

 

PRADA(プラダ)の質の高い製品は欧米に知れ渡り、ブランドを大きく成長させたのです。

またPRADA(プラダ)はミラノの中心部に位置するアーケード、ビットリオ・エマヌエーレ2世ガレリアに店舗をオープンしました。

 

その後兄のマリオ・プラダは、その時代の旅行用バッグに一般に使われていた、

 

セイウチ等の革などで作られた高級で重いスーツケースは実用的ではないと思い、

 

軽い防水生地が使われているバッグを発表しました。

 

そのバッグは世界中のビジネスマンや富裕層の人々から支持されるようになり、

 

それによりPRADA(プラダ)は世界中に名前を知られるようになっていきます。

その後も順調に事業を進めていき、PRADA(プラダ)は2号店を開店しました。

しかし当時は第一次世界大戦から第二次世界大戦かけての時代で、

 

順調にいっていたPRADA(プラダ)にもその戦争が大きく影響をもたらしました。

戦争という緊急事態においてプラダのような高級革製品を持って旅行するということは

 

時代にそぐわないものとなってしまいました

 

その後さらに開店予定だった3号店は開店が中止となり、

 

PRADA(プラダ)の本店は経営不振に陥り、

 

なんとか持ちこたえたものの今度は戦争の爆撃にあってしまい、

 

さらに経営不振に拍車がかかり、本店を残し2号店は閉店してしまいます。

弟のマルティーノ・プラダはこの戦争の期間中に政治的問題で

 

兄マリオ・プラダのもとを離れて、その後は兄マリオ・プラダのみでの経営となりました。

 

その後マリオ・プラダが亡くなってしまうと、

 

マリオ・プラダのあとを継いだのはナンザとルイーダという2人の娘でした。

そこでPRADA(プラダ)は、大きく方向転換をします。

ターゲット層をこれまでの上流階級から、戦後復興の立役者であった中流階級に変更しました。

 

しかしその後PRADA(プラダ)の人気は急速に下降していきました。

PRADA(プラダ)の成功は、創業者のマリオ・プラダの存在が大きく、

 

一時期は大きく飛躍しましたが、

 

彼の死後は不遇の時代を迎えブランドとして大きく低迷していくこととなってしまいました。

創業者マリオ・プラダの死後長く低迷する期間が続いていたPRADA(プラダ)でしたが、

 

創業者マリオ・プラダの孫娘にあたるミウッチャ・プラダが

 

経営者兼デザイナーに就任した事によって、ブランドは劇的な復活を遂げていきます。

しかし、その始まりには少し前のある出会いが重要なきっかけとなっていました。

 

それはミウッチャ・プラダの後の夫となるパトリツィオ・ベルテッリとの出会いです。

パトリツィオ・ベルテッリは元々腕の立つビジネスマンで

 

高品質の革小物の製造で高い評価を得ているメーカーを所有していました。

 

そして驚くことにパトリツィオ・ベルテッリは

 

当初、その高い革小物の製造技術でなんとPRADA(プラダ)の偽物を作っていたそうです!!!

 

PRADA(プラダ)を救った一人である人物が、

 

最初はPRADA(プラダ)の偽物を作っていた業者というのはとても驚きですね!

そしてその後、ミウッチャ・プラダとパトリツィオ・ベルテッリは

 

ビジネス・パートナーとして協力関係を築いた後、私生活でも結婚しパートナーとなります。

ミウッチャ・プラダが豊かなデザイナーとして創造力を発揮する一方、

 

パトリツィオ・ベルテッリが経営、生産面で彼女を支えました。

 

そうして、PRADA(プラダ)は再びその人気を高めていくことになります。

そして、2020年、長年デザイナーとしてブランドを率いてきたミウッチャ・プラダに加え、

 

ラフシモンズが共同デザイナーとして、PRADA(プラダ)に参加することになったそうです。

 

今後今まで以上にプラダが注目を集めていくことでしょう。

 
 
 
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GUCCI(グッチ)
 
 

世界中で愛されている高級ブランドGUCCI(グッチ)

 

GUCCI(グッチ)の創立者であるグッチオ・グッチは、

 

1881年イタリアのフィレンツェで「ガブリエロ」という麦わら帽子を製造する会社の息子として生まれました。

 

グッチオは1898年17歳の頃に一旗あげようとロンドンに渡り、

 

そこでロンドンの最高級ホテル「サヴォイ・ホテル」で働き始めました。

 

最初は最下級労働者として皿洗いなどで働き、

 

後に1階のウェイターに出世し、低賃金ながらも貴族御用達であったため、

 

チップなどで不自由はしていなかったと言われています。

 

グッチオはこの際、サヴォイ・ホテルに訪れる上流階級のセレブ達の持ち物や、

 

立ち振る舞いを間近で観察する事で、エレガンスな美的感覚を磨いていったそうです。



そしてグッチオは1901年20歳の頃にフィレンツェに帰国しました。

 

帰国後、アンティークショップなどで働き、

 

第一次世界大戦後は高級革を取り扱う「フランツィ」に就職し、

 

そこで革の取り扱い方法や、選別方法を学びました。

 



その経験を生かし、1921年に革製品を扱う会社を設立、

 

翌年1922年には生まれ故郷であるフィレンツェパリネオ通りに鞄店を開きました。

 

更にその翌年1923年に「Gucci」の名を掲げ、

 

それが今の「Gucci(グッチ)」が誕生したのです。

 

 
 
 
 
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FENDI(フェンディ)
 

FENDI(フェンディ)とは・・

フェンディ夫妻がローマへ革製品のショップを設立したことから、FENDI(フェンディ)の歴史はスタートするそうです。



当時流行していた毛皮のマフラーに着想を得てコートを製作したのがヒットし、

 

以来FENDI(フェンディ)の毛皮のコートはローマに住む女性のステータスとなりました。

のちにフェンディ夫妻の5人の娘たちも経営に加わり、娘たちの手腕を借りることによって更にブランドは拡大。



そして1965年、当時前衛的なスタイルで世間を賑わせた名デザイナーである

 

カール・ラガーフェルトを主任デザイナーへと迎え入れたのです。



カールは別名「モード界の帝王」とも呼ばれていましたが、

 

まだ27歳の若者であったカールを主任として迎え入れたのは

 

FENDI(フェンディ)の偉業として讃えられています。



日常着をエレガントに表現するというカールの独創的なデザインは

 

FENDI(フェンディ)の人気に追い風を吹かせ、ブランドとしてますます発展するに至りました。



FENDI(フェンディ)が培った伝統的な職人技と新たなデザインへの試みは世界中を沸かせ、

 

FENDI(フェンディ)、カール共にファッション界でなくてはならない存在へとなったのです。



FENDI(フェンディ)とカールのコラボレーションは当時のクラシカルな毛皮のイメージを一掃し、

 

前衛的でクリエイティブなものへと昇華させました。



1969年には毛皮を用いたコートのプレタポルテ(既製服)を製作し、

 

これまで余所行きとして敬遠されていた毛皮を、

 

人々がより手にしやすい環境を作り上げたそうです。



そしてカールはFENDI(フェンディ)でコートの裏地として採用していたズッカ柄に着目し、

 

それを表地へと活かしたデザインを作成します。



それが今なおFENDI(フェンディ)ィで根強い人気を誇る"ズッカ柄"の始まりです。



FENDI(フェンディ)の頭文字であるFを刻印したズッカ柄は、

 

ひとめでFENDI(フェンディ)と分かる存在感とシンプルかつラグジュアリーなデザインで、

 

瞬く間にブランドのアイコンとして定着しました。

 

FENDI(フェンディ)には数多くの人気ラインがあります。

 

それもFENDI(フェンディ)の人気の秘訣なのでしょうか。

 
 
 
 

 

 

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